天竜川と邪馬台国~陳壽『三國志』

 西晋の時代、陳壽の撰による正史『三國志』魏志の第三十巻『烏丸鮮卑東夷伝』に「倭人」について記されている。一般には「魏志倭人伝」として知られる。

 陳壽は巴西郡安漢の人で、蜀漢に仕え譙周に師事、史書に通じ、蜀漢滅亡後は晋に仕え武帝(司馬炎)に高く評価され『三國志』を著した。

 陳壽の父は「泣いて馬謖を斬る」の故事で有名な馬謖の参軍(将校)で、馬謖の処刑に連座して髠刑(剃髪の刑)に処された。この為、陳壽は(刑を命じた)諸葛亮を快く思わず、主に軍略の面で諸葛亮を高く評価しなかったといわれ後世に非難を浴びた。また、亮の子諸葛瞻と仲が悪く、瞻については批判的に書かれている。

 本来、史書というのは関係者が存命のうちは私情が絡んでしまうので、通常は百年以上後に編纂される。三国時代より前の時代をまとめた『後漢書』は南朝宋の范曄によって陳壽『三國志』より百年以上後に成立したが、陳壽『三國志』は、ほぼ同時代の「私撰」の書でありながら、南朝宋の歴史家裴松之は改めて編纂し直すことはせず、陳壽の書はそのままに膨大な注釈を付けるに留め、唐代になって正式な歴史書として認められた。

 のちに『三国志演義』の創作により荒唐無稽なストーリーが附され神がかった軍師というイメージがついた諸葛亮だが、亮と並び称された龐統が劉備(のちの蜀漢昭烈帝)入蜀の際には軍事を任されており、亮は内政を任されていた。陳壽は「政治家」としての諸葛亮には絶賛に近い評価を与えており、父の恨みや諸葛瞻との確執という私情を挟まず淡々と事実を並べていったのだろう。

 『三国志演義』は虚構を交えながら善人、悪人、ヒーローと敵役をはっきり分けて描き出し単純明快なストーリーに仕立てているが、陳壽『三國志』には、それぞれの人物が時に優れた事績も残せば時に愚かで不可解な行動もするという事実が淡々と記されており、人々の行動は非常に複雑で「事実は小説より奇なり」という面白さがある。

 陳壽は人々が「何故そうしたか」までは踏み込んで記しておらず、不可解で矛盾した人々の動きについて裴松之は同時代の資料(相反する内容も多く書かれている)を並べ膨大な注釈を附した。

 『三國志』の時代というのは、激動の時代であり、それぞれがその時その時の潮流を見て戦略を練り上げている。何が正しくて何が間違っているのか、その時その時、その場限りでは判断が難しい。二世紀末、後漢王朝の崩壊を引き金に七世紀初頭の唐王朝の建国まで中国の動乱は続き、周辺諸国も否応なしにその波に巻き込まれていった。人と人、国と国、時代と時代が複雑に絡み合う。遠い場所で興った些細な出来事の余波が時代を超えて襲ってくる。残された僅かな記録から全体像、或いはその混沌とした時代の中の一部分を把握するには膨大な資料と向き合う必要がある。

 ”景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む”

 魏の明帝(曹叡)景初二年(238年)、倭の女王卑弥呼は大夫の難升米(なとめ)らを帯方郡(現在のソウル付近、後漢末に公孫氏が自立して朝鮮半島北部を治め韓、倭と通交していたが、同年に魏の大尉司馬懿によって滅ぼされている)に派遣、この年の十二月に軍太守劉夏の手引きで難升米らは洛陽に至り男生口(奴隷)四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り明帝から詔書を賜わった。 

 ”汝の在る所は踰遠なるに、乃ち使いを遣わして貢献す。是れ汝の忠孝なり、我甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王と為し、金印・紫綬を仮(あた)え、装封して帯方の太守に付して汝に仮授せしむ。其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ”

 明帝は遠方より遣使してきたことを哀れに思い、卑弥呼を親魏倭王に封じ金印を授与している。この時、大夫の難升米、牛利(ごり)も遠方からの労を認め、それぞれ率善中郎将、率善校尉に任じ銀印・青綬を授与された。

 金印については、単に遠方より来たことに対する労いの印のようにも読めるがどうだろうか。使者の難升米らも周辺諸国の王と同様に銀印が与えられている。皇帝は我が子を諭すように儒教の教えを説き、哀れみをもって慈しんだが、このように諸王に対して長幼の序を示すのは一種の「お約束」だろう。

 公孫氏は魏から受けた大司馬・楽浪公の地位を不服として燕王を自称し反旗を翻して司馬懿に滅ぼされたが、燕と通交していた倭は王として認められている。これは中国の中と外の問題で自国(つまり「中国」)として見ているか「外国」として見ているかの違いだろう。冊封体制というが、あくまで倭国女王が魏の政治体制の中に組み込まれたわけではなく、外交辞令で名誉色の強い称号を与えただけではないか。

 ”降地の交竜錦五匹、降地の縐粟罽十張、蒨絳(せんこう=茜の絹)五十匹、紺青五十匹を以て汝の献ずる所の貢直に答う。又特に汝に紺地の句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して難升米、牛利に付し、還り到りて録受せしむ。悉く以て汝の国中の人に示し、国家(中国)の汝を哀れむが故に、鄭重に汝に好き物賜いしことを知らしむべきなり”

 男女の生口十人、班布二匹二丈の貢直に対して有り余る返礼の品目に加え、さらに宝物や銅鏡が下賜されている。朝貢貿易とは、外国の使者に対し中国の国威を顕示するため常に赤字貿易となっていた。周辺諸外国にしてみれば、中国と通じることで軍資金が得られ、国内外に権威を示すことが可能で大きなメリットが得られた。

 卑弥呼は贈られた銅鏡等を連合諸国の族長に贈るなどして勢力の拡大に努めていったのだろう。 日本国内からは魏の青龍三年(235)、景初三年(239)、景初四、正始元年(240)に加え、呉の赤烏元年(240)、七年(245)の銘が刻まれた銅鏡が各地から出土している。卑弥呼が魏と呉に対して両面外交を行なっていたか、或いは卑弥呼(邪馬台国)と敵対する勢力が呉と通交していたということも考えられるだろう。

 陳壽は蜀漢の官僚であり、晋に仕官するまでは東方の事情に通じてはいなかったと思われる。蜀漢は史官をほとんど置かず、諸外国の記録は魏の文書に頼ることになる。西晋時代は漢から魏へ、魏から晋へという正式に禅譲された帝位を正統としており、呉が諸外国と通交した記録があったとしても陳壽が取り上げなければそれまでである。

 陳壽は魏を正統とし、漢王朝の継続を主張する蜀漢には(自国ということもあり)敬意を払いながらも、正当性を持たない呉の皇統は尊重していない(陳壽の時代には呉の関係者も存命であったから袁術の仲王朝のように悪し様に書くことはなかったが、孫権の帝位は袁術同様自称であり、そもそも孫呉政権そのものが事実上仲王朝の後継である)。呉は公孫氏の燕と一時同盟関係にあり、長江下流域を支配して水軍を擁していたので、(実際に呉の年号が刻された銅鏡が日本で出土しているのだから)倭国と通交があったと考えるのが自然だろう。

 ”正始四年(243)、倭王、復た使いの大夫伊声耆、掖邪狗等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青縑(赤と青の絹布)、綿衣、帛布(しろぎぬ)、丹木、ふ、短き弓と矢を上献す”

 五年後、倭国は再び魏に献上品を奉るが、赤と青の絹布、白絹を贈っている。当時、絹の製法は中国宮中の秘であり門外不出でインド、ペルシア、ヨーロッパでは絹の製法がわからずシルクロードの交易による中国からの輸入に依存していたが、弥生時代の日本には製法が伝わっていたようだ。

 正式な使者として記録が残されている以外に非公式な通交があっても不思議ではないし、洛陽まで来て始めて記録として残されるのであって、倭国が帯方郡や長江流域と頻繁な往き来があったとしても全てが記録に残り正規の歴史書に記載され後世に伝えられるわけではない。記録がないからその間、倭が何もしていなかったと考えるのが不自然で、断片的な記録や考古学的知見、民間伝承や当時の気象、地勢、世界情勢などを見極めながら過去を探っていく他はない。

 ”正始八年(247)…倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の戴斯、烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く”

 倭の女王国と敵対していたのは狗奴国で、女王国(に属する諸国)の南にあり正始年間には邪馬台国と狗奴国は戦火を交えていたようだ。

 近年の研究では、女王国の所在地は奈良の三輪山付近が有力で、一方、狗奴国の所在地を袋井市久努とする説があり、邪馬台国と狗奴国は天竜川を挟んで対峙していたという考えもあるようだ。

 そこで、天竜川と邪馬台国、狗奴国の関係を遠州の地形や伝承を見ながら考古学的知見なども学びつつ検証をしていきたい。邪馬台国は何処へ消えていったのだろうか。



天竜楽市

静岡県浜松市天竜区は天竜川と秋葉の山々に囲まれた山間地。永い歴史と豊かな物産、伝統ある祭禮や観光、イベント情報を紹介するページです。

0コメント

  • 1000 / 1000