世界のAKIBA 遠州から全国へ~秋葉信仰

 毎年12月15日に行なわれる遠州秋葉山秋葉寺の火まつり
 江戸末期には全国に二万五千余の秋葉大権現を祀る社があったといい、その総本山が遠州秋葉山に座する大登山秋葉寺であった。


 遠州では治水の光明山、火防の秋葉山に春埜山を合わせた山岳修験の三山を古来は遠州三山と云った。


 熊野三山、出羽三山(古来の呼び名は羽州三山)も同様に全国規模の信仰を集めた山岳修験の霊山であり、遠州三山という呼称は本来、遠州地方のローカルな近世寺院に冠せられるのではなく、仏教、神道に限定されず上古の昔から連綿と続く縄文由来の山岳信仰に敬意を払って用いる言葉なのだろう。


 秋葉大権現を祀る秋葉山秋葉寺山門


 現在、遠州秋葉山には山頂に秋葉山本宮秋葉神社上社、山麓に秋葉神社下社があって山の中腹八合目付近に秋葉山秋葉寺がある。
 

 明治初期まで山頂にあった神仏混淆の大登山秋葉寺が神仏分離によって明治五年に神社と寺に分かれたのち一旦寺は廃絶し、御本尊と三尺坊権現の像は可睡齋に遷った。神社は三尺坊権現は祀らず、秋葉大権現を神道の火の神である火之迦具土神(阿多古神)であるとして主祭神としている。
 

 明治十三年に秋葉寺は再建が認められ本尊と三尺坊を奉還し現在地に遷っている。山頂にあった秋葉山神社は戦時中に火災に遭い焼失(本来、火伏の神である秋葉権現が戦火にさらされる人々の身代わりになって燃えたのだという…浜松は空襲で大きな被害を受けたが当時の県社秋葉神社の氏地である二俣町以北は空襲の被害を全く受けていない)、当時の情勢もあり山頂での再建を諦め、山麓の領家坂下六所大明神の隣地に遷座(下社)した。上社の再建は昭和61年。

 本来、真言密教系の寺院であった大登山霊雲院秋葉寺だが、戦国時代に光明山と共に秋葉山頂には城が築かれ今川、武田、徳川の興亡の拠点となった。この頃には武装した僧兵がいたようで、江戸時代になると幕府による武装解除の思惑もあってか曹洞宗に改宗させられ光明寺、秋葉寺共に可睡齋の管理下に置かれている。


 秋葉信仰は全国最大の民間信仰であり、いつの時代も御上にとっては厄介な存在であったようで、江戸初期の改宗や明治初期の神仏分離には複雑な政治的背景が絡んでおり、またその度に秋葉寺内でも修験派と禅宗派、神社派と寺院派に分かれて内部抗争があり、そして没収されたのではないかと疑われるほど(有名な信仰にしては)記録資料に乏しいため、分裂の経緯は非常にわかりにくいものとなっている。


 また、江戸時代の記録でも秋葉大権現と秋葉三尺坊権現はそれぞれ別の神格であるとするものと、同一であるとするものがあって、より一層混迷を深めるものとなっている。


『東海道名所図会』によれば、本尊聖観音菩薩、鎮守として秋葉山大権現=祭神大己貴命(遠淡海小國神)とし、別に護神として三尺坊を上げている。
『遠江古迹図会』でも“秋葉は祭神大己貴尊(今云ふ大黒天これなり)。すなはち、秋葉大権現と号く。”とし、はっきりと“嵯峨天皇の御宇大同四己丑年、越後国蔵王堂(天台宗)十二坊の内三尺坊に住する僧、この山に来て一万座の護摩を修行し、行法に依りて翼生じ、天狗と成り、永くこの山の守護神となる。すなはち三尺坊と名乗り、白狐に乗りて飛行自在をなす。火の神とならせたまふ。後に火災有りて不動の尊体を顕す。世俗誤りて、秋葉権現は三尺坊と心得たるは間違ひなり。齟齬したる事なり。三尺坊の宮の脇に別に宮有り。”として、秋葉大権現と秋葉三尺坊権現は別々に祀られているが当時から両者を混同する 間違ひ が生じていたという。


 一方、これらより先に大登山秋葉寺が作成した(いわば公式文書である)『遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起』によれば、秋葉権現は三尺坊であるとし、その上で本地仏が観音菩薩であるとする。つまり、本尊聖観音菩薩=秋葉大権現=三尺坊権現である。

秋葉寺大日如来像

鉈彫の三尺坊

 大黒天像


 現在、秋葉山秋葉寺では本尊聖観音菩薩、秋葉三尺坊像、大黒天像を別々に祀っている。


 推測だが、元々遠淡海小國神オオナムチノ大神威様が祀られ(春野町杉の本宮小國神社は履中天皇四年(403)に遠淡海國磐田郡与利郷杉村神戸島に奉祀)、奈良時代の頃から仏教寺院として聖観音菩薩が祀られ、平安時代以降に戸隠から来た修験者三尺坊が神格化され、それぞれ別々に祀っていたものを、江戸時代には表向きに三位一体の秋葉大権現と言っていたのではないか。

 新潟の秋葉区の命名由来となった新津秋葉神社は主祭神を大己貴神とし、「火伏せの神」は秋葉大権現で観音様が鳥の中の王と目されている金翅鳥、通称「からす天狗」の姿になって世に現れたものとしている。全国の秋葉神社が明治初期に一律に火之迦具土神に移行したわけではなく、元々の大登山霊雲院秋葉寺の縁起を踏襲したもの、秋葉山本宮秋葉神社の分社となり火之迦具土神を祀ったもの、可睡齋の末となり三尺坊を祀ったもの、そして僅かだが秋葉山秋葉寺の末(舘山寺)となったもの、その他独立系に分岐していったものと思われる。


 一層わかりづらいことを言えば、江戸時代の遠州秋葉山は三尺坊を祀る火防守護として全国的な信仰を集めたものの、分社分閣の勧請依頼には応じず、あくまで遠州秋葉山を詣でることを信仰の目的としていたのだが、勧請を希望する寺社は多く、三尺坊が修行した楡原に由来する越後栃尾の秋葉神社の別当、常安寺が三尺坊の勧請を許可したたため、遠州大登山秋葉寺は常安寺を寺社奉行に訴えている。

 栃尾側も大本山は遠州と認めていたようだが、この案件を影で裁いたのは大岡越前守であったといい、栃尾を「古来の根本」、遠州を「今の根本」とする日和見的な裁きが下されている。これによって栃尾系の秋葉神社も全国に存在している。

 また、二俣城主大久保忠世が遠州秋葉山から分霊勧請した小田原の秋葉山量覚院は当時のまま神仏混淆を貫き、元亀二年(1571)十二月十六日天野小四郎景直が清水に開山した真言宗醍醐派 秋葉山本防 峰本院は「本坊」を名乗り(おそらく宗旨変えによって大登山秋葉寺を離れた真言派が「こちらが本家」と言い出したのではないか?)、三尺坊像を遷座した可睡齋が「火防総本山 秋葉総本殿」を謳い、熱田神宮の境内にある秋葉山 圓通寺が「日本最古唯一の秋葉大権現ご出現の霊場」を唱えるに至って、遠州秋葉神社はわざわざ「秋葉山本宮秋葉神社」と号せざるを得ない状況になっているのである。


 然し、秋葉信仰の根本とは、遠州秋葉山を御神体山とする山岳信仰であって、本来大登山秋葉寺は「ここへ来ること」を絶対視していたのだ。
 それ故、秋葉山本宮秋葉神社下社は本殿がなく拝殿のみの遥斎殿として山を御神体としたのだろう。

 現在では上記のような比較的都市部にある神社や寺で盛大に「秋葉の火まつり」が行なわれ大本山を凌ぐ勢いである。
然し、本来はこの遠州秋葉山(大登山)を登ってこその「秋葉信仰」であり、「秋葉の火まつり」であるということを忘れてはならないのではないか。


 世界のAKIBAも新潟秋葉区の地名も、この「遠州秋葉山」に由来する。AKIHA(本来は濁らない)の名は世界に知れ渡るビッグネームであるが、火防守護秋葉三尺坊大権現を祀る大本山遠州秋葉山秋葉寺の火まつりは山頂から下っても30分、山麓から登山すれば一時間半ほど…車が通わず夜中に真っ暗な森の中を歩いて行かなければ辿り着くことは出来ない。


 それでも大勢の参拝客が詰め掛けているが、同日全国各地の都市部で数千人から数万人を集めて行なわれる「秋葉の火まつり」の人出には遠く及ばない。


 江戸時代には日本中から幾千幾万の人が遠州秋葉山を目指して旅をしてきた。当時はさぞ賑やかだったのだろう。



 大黒殿で般若心経が唱えられ、遠州秋葉山の古式に則って行なわれる「神事」
神社と寺に分かれているものの、神仏混淆の大登山秋葉寺の神事はそのまま秋葉山秋葉寺に引き継がれている。


 こうした点を踏まえても、秋葉山秋葉寺は大登山秋葉寺の正当な後継ではあるが、再建直後に大登山秋葉寺の土地は全て秋葉山神社に払い下げられることとなったため、秋葉山秋葉寺は正統な後継であることを訴え出たという。然し、秋葉山秋葉寺は大登山秋葉寺の後継とは認められず、新規の寺であるとされた。再建の名目で許可が下りていたにもかかわらずである。

 
 一度廃寺にはなったものの、それは大登山秋葉寺が神社と寺に分かれてからであり、大登山秋葉寺が全て神社に移行したわけではない。再建が認められたなら土地の権利も半分は認められて良さそうなものである。
 結局、秋葉寺は大登山秋葉寺の後継と正式に認められなかったものの、神社から土地を譲り受けることは出来たようで、当時の状況は名より実を取らざるを得なかったというのが実情ではないだろうか。

 江東区南砂にある日照山中央寺は元は深川御船蔵町にあり、寛永7年(1630)創建、嘉永3年(1850)に本所番場町にあった遠州秋葉寺三尺坊権現の宿坊三聖軒を合併している。


 深川中央寺には遠州秋葉山から分霊した三尺坊の像があり、遠州秋葉の東京別院に相当する特別な存在であったようだ。
 その三尺坊像は遠州で秋葉寺が再建された年に遠州から使者がやって来て引き取って行ったそうだ。
 そういう理由で、大登山秋葉寺が正式に認めた三尺坊像は現在遠州に二体ある。

 台東区台東にある佐竹秋葉神社。遠州秋葉山本宮秋葉神社を本宮としている。佐竹町には秋田藩主佐竹氏の大名屋敷があり邸内に秋葉神社が祀られていたと云う。佐竹屋敷は江戸前期には神田にあり、それ故秋葉原の地名由来の神社であるとする説(一般には秋葉原から松が谷に移転した鎮火神社を秋葉神社と誤認したことが秋葉原の地名由来の通説になっている…鎮火社は移転後、秋葉神社に改称、遠州秋葉山と直接の関係はない)がある。

 
 以前、同社の社殿では明治二十二年に秋葉ヶ原から遷座としていたが、明治十八年一月二十日の読売新聞に「秋葉の遷座 今日ハ深川御船蔵前町の秋葉中央寺に安置の秋葉神社を今度下谷竹町の佐竹の原へ遷座し安置式を執行する其道筋ハ御船蔵前より万年橋を渡り河岸通り永代橋を渡り小網町通り堀留大門通り大丸にて小休み夫よら弁慶橋通り柳原へ出て右へ美倉橋を渡り三味線堀より竹町の教会所へ着の手筈なりといふ」という記事があることが判明した。


 中央寺は遠州に三尺坊を奉還したが、まだ秋葉神社(秋葉大権現?)は残していたようだ。記事を見ると、御船蔵前から佐竹の原までルートを決めて盛大に行幸してきたようである。


 新宿御苑近くにある秋葉神社。
「遠州可睡齋」の扁額がかかる。地元自治会では何故「神社」が寺の末になっているのか疑問に思っているそうだ。


 墨田区向島の秋葉神社。火産霊神を祀る。現在、秋葉山本宮秋葉神社と直接の繋がりはないそうだが、『江戸名所図会』(寛政から天保にかけ編纂)には遠州秋葉権現を勧請した秋葉大権現社であると記されているそうだ。

 江戸東京にも秋葉神社は数多くある。江戸の秋葉信仰は家康と共に遠州出身の家臣が多く移り住んだことで江戸に持込まれたと思われる。その後の遠州秋葉の変遷により本宮、本山との関係が次第に薄れていったのではないか。

 徳川家康自身も秋葉山とは深い縁があり、浜松城時代に叶坊光幡を秋葉寺別当に送り込み、秋葉山を勢力下に置いた。家康の長男信康が二俣城で切腹せず秋葉奥之院に逃れ八尺坊権現となった説があるが、秋葉山周辺には織田家も手出しできなかったようで、武田が滅んだとき、武田家家臣は秋葉山に逃げ込み、のちに家康の家臣となっている。


 武田麾下の「赤備え」の兵が井伊家に仕え井伊の赤備えとなった。秋葉山本宮秋葉神社の金色鳥居は戦後再建されたものであるが、最初に秋葉山へ金銅鳥居を寄進したのは井伊直虎の義理の孫にあたる井伊直孝であった。
 

 青山忠成は浜松から江戸に移ると原宿、赤坂、渋谷にかけて広大な土地を賜わり、青山の地名はこの青山氏から付けられたと云われる。青山家はのちに浜松藩主となり、その後、青山忠重が丹波亀山藩に移封されると同地に秋葉三尺坊を勧請している。

 


 先に述べたように二俣城主大久保忠世も小田原転封後に秋葉大権現の分霊を祀っている。この様に秋葉所縁、遠州所縁の大名家が各地に転封されると共に江戸関東から全国へと秋葉信仰が広まっていったのではないかと思われる。


 浜松城は出世城とも云われ、譜代大名が入れ替わり立ち替わり浜松藩主となり、加増されて各地に転封されていった。掛川藩も同様に享保以降太田氏が藩主に落着くまで譜代大名が激しく入れ替わっている。


 古来より火防の神と云えば阿多古(愛宕)か秋葉だが、一見京都の阿多古に比べ遠州の秋葉はローカルな印象があるが(実際に中世以前の秋葉はせいぜい遠江、三河、駿河、信濃辺りまでのローカルな信仰にとどまっていたと思われる)、江戸時代に全国へ爆発的に広まったのは秋葉の方であり、その背景には徳川譜代大名、旗本家、秋葉に恩寵を受け譜代家の家臣となっていった旧武田家臣らによる拡散を見逃すわけにはいかないだろう。


 また、他に信奉する神祇や本地があったとしても、火防神は合わせて祀りたいものである。秋葉は大きな分社分閣は少なく、おそらく正式に勧請されたものではなく単に遠州秋葉の御札を祀った小さな祠や、岩に秋葉大権現と刻んで御神体としているところが多い。


 町や村に秋葉様を祀っているものの、正式な分社ではないためか、秋葉講として年に一度、町村の代表が遠州秋葉に代参する習わしが全国に広まったと思われ、江戸末期に全国の秋葉講の数は三万を超えていたという。

 古代より幾千万の人々が辿っていった秋葉への道。
 全国的な広まりを見せた(…今ももちろん日本中に秋葉を祀る社祠がある)信仰にしては記録が少なく研究も進んでおらず、その全貌は未だ杳として掴めるものではないが、確かなことは、その神を祀るものは遠州秋葉山へ参る必要があるということ。


 秋葉原が世界のAKIBAになったように、アキハの名は未だ衰えぬ御稜威を持っているということ。


 三尺坊(さんじゃくぼう)は…実はミシャクボウと読んで縄文由来の神「ミシャクジ」に通じるのだとか、秋葉大権現は本来出雲神のオオナムチノ大神威様で、天狗の由来は出雲の天宮信仰に起因するとか、地元天竜区には秋葉に関する非常に魅力的な説がある。


 地元以外の研究者は秋葉信仰を単独の信仰として見ているようだが、諏訪、出雲信仰、光明山信仰と切り離して考えることは出来ない。また竜頭山、大洞山、山住山といった秋葉と尾根続きの山々に点在する渓谷や磐座も上古から連綿と続く信仰として秋葉と一連に考えなければならない。


 百聞は一見に如かずと云うが、まずはこの聖地遠州秋葉山に登って(かつての江戸からのメインルートは東海道ではなく、中山道を往き善光寺、諏訪を経由し青崩峠を越えて竜頭山の方から秋葉へ向ったのだという)周辺を理解した上で秋葉信仰の深遠なる源流に思いを馳せていただきたい。


 そしてせっかく遠州秋葉の地へ来たのなら遠州大登山秋葉寺を受継ぐ秋葉山本宮秋葉神社上下両社、秋葉山総本山秋葉寺の神仏双方にお参りをしていただきたい。


 平成29年遠州秋葉の火まつりは12月15日(金)に秋葉寺の火渡り、12月16日(土)に秋葉神社上社での火の舞が行なわれる。遠州秋葉に来る絶好のチャンスである。



天竜楽市

静岡県浜松市天竜区は天竜川と秋葉の山々に囲まれた山間地。永い歴史と豊かな物産、伝統ある祭禮や観光、イベント情報を紹介するページです。

0コメント

  • 1000 / 1000