鹿島十分一番所

 鹿島十分一番所は、元和三年(1617)に駿府藩主徳川頼宣によって椎ヶ脇神社の社領に設置され、天竜川を上下する舟運物資を改め分一税を徴収しました。番所は幕府役人による直取立か有力商人による請負取立で運営され、初期は掛塚や江戸の商人が請負っていました。 

 元禄八年(1695)から正徳二年(1712)にかけ水久保(みさくぼ)村平出屋武左衛門が六年四六〇〇両、船明村山形屋喜兵衛が三年二四五〇両、大井村平出屋源五右衛門が九年六九〇〇両でそれぞれ請負っており、山間部にも財力のある豪商が現れてきたようです。船明村名主も務めた山形屋は「筏宿」を家業とし、榑木の川下げが管流しから筏流しに改まると御用材の筏下も請負っています。 

 中世以前、鹿島は「今津の渡し」と呼ばれ、天竜川の重要な渡河点でした。鹿島の北で二俣川と阿多古川が天竜川に合流し、南で麁玉河(天竜川西流、小天竜)と廣瀬河(東流、大天竜)に分流しており、河道が一本にまとまり川幅が狭く、東西南北交通が交差する要衝だったのです。

 二俣郷社椎ヶ脇神社は、延喜式内猪家神社に比定される古社で、延暦二十年(801)に征夷大将軍坂上田村麻呂が水神を勧請したと伝えられています。 

 古来、天龍河は諏訪湖から二俣まで。鹿島より南は「磐田之海」であったと云われています。鹿島の東岸にある「鳥羽山」のトバは、波止場、船着き場に由来する地名、鹿島の西南「根堅」という地名は海底にある「根之堅洲國」に由来する地名であるとも云われます。また、「汐見渡(しおみど)」という満潮時にはそこまで海水が来ていたとされる地名もあります。 

 天竜川は二俣まで赤石山脈南端の急峻な山々に囲まれた谷底を流れ、鹿島から扇状に広がる遠州平野に出て、蛇行して流れていきます。縄文海進のピーク(BC4000頃)には、日本の平野部の多くが海に沈んでいたとする説もあり、根堅遺跡から本州唯一の旧石器人「浜北人」が発見されるなど、古くから人の営みがあったこの地には、様々な言い伝えが残っています。 

 椎ヶ脇神社の崖下、椎ヶ淵には竜宮城があるという多くの伝承があり、椎ヶ脇神社には龍王の娘(豊玉姫)が祀られ、龍宮山岩水寺の山号の謂れにもなり、椎河脇大龍王は奥山方広寺の守護神とされています。 

 鹿島から南は「暴れ天龍」と呼ばれ、昔から水害が多く、「磐田之海」を司る海神「椎河脇大龍王」を鎮めるために行なわれた祭事が「椎ヶ脇神社奉納煙火」で、名高い「鹿島の花火」の起源になりました。鹿島から南の天竜川流域には多くの椎ヶ脇神社分社が祀られています。


天竜楽市

静岡県浜松市天竜区は天竜川と秋葉の山々に囲まれた山間地。永い歴史と豊かな物産、伝統ある祭禮や観光、イベント情報を紹介するページです。

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