平成29年秋葉山総本山秋葉寺火まつり
秋葉山総本山秋葉寺の火まつりに行ってきました。
天竜区二俣町から国道152号(信州街道、秋葉街道)を北上、西雲名の秋葉橋を渡り、東雲名からスーパー林道に入り7kmほど山道を登って秋葉山頂付近の秋葉山本宮秋葉神社上社駐車場へ車を停め、山頂の神社まで石段を登っていきます。
神社を通り過ぎ、登山道を下って森の中を15分ほど歩き、20時半頃秋葉寺に到着すると…既に大黒殿で御祈祷が始まっていました。
開運大黒天
『遠江古迹図会』享和3年(1803)によれば…“秋葉は祭神大己貴尊(今云ふ大黒天これなり)。すなはち、秋葉大権現と号く。(中略)世俗誤りて、秋葉権現は三尺坊と心得たるは間違ひなり。齟齬したる事なり。三尺坊の宮の脇に別に宮有り。”
秋葉大権現と秋葉三尺坊権現は別宮に祀られており、秋葉大権現は大己貴尊(江戸時代の国学者内山真龍説では小國神が祀られていたとする)で、既に江戸時代後期には大黒天が祀られていたようです。
一方、江戸中期に大登山秋葉寺が出した『遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起』享保2年(1717)では三尺坊と秋葉権現は同一で、三尺坊の本地仏を観音菩薩としています。
内山真龍『遠江國風土記伝』では秋葉山麓の小川や雲名を気多郷、領家を気多領家郷としていますから、秋葉山は気多神でもある(気多大社祭神の)大己貴命を祀っていたはずと考えたのでしょうか。
真相は大黒様だけが知っているのでしょう…
寛政十年(1798)に京都で出版された「遠山奇談」では気田川を宮川、或いは犬居川としているようですが、宮川の名の由来は…気田川の支流杉川の上流にある本宮小國神社(祭神遠淡海小國鹿苑神=大己貴命=正国六音大菩薩)に関係があるのでしょうか?
秋葉と大己貴命には深い因縁がありそうです…
読経のあとはお餅撒き。かなり豪快に投げています。三つ拾いました…
ここで無料奉仕されている天狗汁と五平餅をいただきます。
五平餅は炭火の焼きたて、天狗汁は具がたくさん入った豚汁で、体も温まります。
ここ二、三日冷え込みが激しく今年は厳しい寒さを予想していましたが、思いの外寒さを感じませんでした。登山道を降りてくる途中で充分からだが温まっており、アツアツの五平餅と天狗汁をいただけばカラダもポカポカしてきます。
浜北の人達による纏の奉納
浜北区には明治頃に作られた秋葉常夜灯が良好な状態で数多く残されており、秋葉山にお参りする人も多いようです。
画像は天竜川東岸から見た光明山、秋葉山ですが、西岸の浜北区からも秋葉山はよく見えます。
近すぎて秋葉山が見えない場所が多い天竜区より浜北区の方が熱心な信者が大勢いるのかもしれません。
法螺貝を吹く山伏スタイルの行者さんが先導し護摩供養が始まります。
火渡りの行事とは、火の神聖な力によって身体を潔斎(心身を清めること)することのようです。
秋葉山では炎のカタチも他とはちょっと違うと云います…
護摩壇に点火
壇上で業火に包まれる行者さん
宙に投げられた四天の凧は炎の上昇気流に乗って舞い上がります。
凧糸が燃え尽きて落下する四天の凧の破片を持ち帰ると良いとのことで手を伸ばす人々
行者さん達は炎の回りを何やら祈りながら回っていきます。
火勢が衰えてくると刀を振って九字を切ります。
炭をならし中央に通り道が作られ、いよいよ火渡りとなります。
最初に行者さんが渡っていきますが、炎を蹴散らしています。
一般の人も素足になって渡り始めましたが…まだ炎が…
そっと列の後ろに並んで火力が弱まるのを待つのが賢明です…
渡りきると「合掌」と書かれた御札を頂くことが出来ました…
御札に添えられた秋葉山主の御礼文にはこう書かれていました…
“秋葉寺には三尺坊様という天狗様が祀られています。
十五日の夕方のお勤めの後、三尺坊様は本堂に旅立ち日本全国のお札や御分身をお回りになられ、十六日の夕方に本堂にお帰りになります。
全国各地のお寺や講中などでは、十五日の夜におまつりや火渡りを行っています。”
毎年、12月15日の秋葉山秋葉寺火まつりに来ておりましたが…三尺坊様が常在する総本山では、何とこの日だけは三尺坊様は不在で全国各地の火まつりをお回りになっていらっしゃるとのこと…!
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