邪馬台国は天竜区で滅んだか?

静岡県西部最大の前方後円墳「光明山古墳」

  大和朝廷の権力の及ぶ範囲は天竜川西岸までであったとする説から、この古墳の重要性がクローズアップされています。 

 光明山、秋葉山からは天竜川を挟んで興亡する東西勢力の激しい覇権争いを見下ろすことが出来たのでしょうか…

 陳壽『三國志』(魏志倭人伝)には、邪馬台国と狗奴国が敵対していたと記されています。

  「西部警察」などで活躍した俳優で考古学者の苅谷俊介氏は、邪馬台国と狗奴国の境は天竜川であったと唱えました。

 鹿島神宮の言い伝えによれば「鹿島」(神妻、かづま)という地名は「東(あづま)の果て」を意味しているのだとか…

 天竜川(正確には鳥羽山、鳥羽は伊勢志摩の鳥羽と同じく波止場の意、明治初期まで境界の神「猿田彦大神」を祀る鳥羽山神社が鎮座)を挟んで隣接する鹿島という地名、二俣という分岐点を表わす地名… 

 出雲(邪馬台国=出雲とする説がある)がこの地で滅び、出雲の「大国」に対して「小國」という名の神社「本宮小國神社(天竜区春野町杉=創建402年)」が鎮座し、天竜川を遡って出雲族が諏訪へ逃げ込んだという伝承(当時、西渡以北の水窪佐久間は信濃国伊那郡奧山郷であり、天竜川を挟んで信濃側に諏訪神タケミナカタを祀る中部馬背神社、遠淡海側にタケミナカタを破った鹿島神タケミカヅチを祀る半場神妻神社が鎮座)…

 天竜区大谷には八幡の神(=応神天皇)が金船に乗って降臨したと伝わる宇佐八幡神社座する「嵩山」があり、その嵩山から尾根続きの「宝林寺山」に光明山古墳はあります。

  応神の子に「若野毛二俣王(継体天皇の祖)」という名の皇子がおり、二俣王の陵墓は近江の長浜市にある垣籠古墳(全長55mの前方後円墳、5世紀末にかけて築造)という伝承がありますが、応神天皇は四世紀末頃の即位とされており、5世紀半ばの築造とされる光明山古墳も二俣王の陵墓比定地に名乗りを上げても良いかもしれません…  


 九州から攻め込んだ応神(中国五胡十六国時代の強国であった前秦の皇族符氏の一族とする説がある)が、出雲から遠淡海までを勢力下に治めていた大和地方の崇神王朝(三輪王朝=邪馬台国=出雲?)を東(狗奴国との国境である天竜川)へ追い詰め、敗れた邪馬台国の残党は天竜川を遡り諏訪へと逃げ込んだ…!?


天竜楽市

静岡県浜松市天竜区は天竜川と秋葉の山々に囲まれた山間地。永い歴史と豊かな物産、伝統ある祭禮や観光、イベント情報を紹介するページです。

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