天竜区最大のパワースポット「樹力茶」下阿多古杉峠やまかい・在来 2018

静岡県浜松市天竜区(下阿多古)青谷(字杉本)
2018年産一番摘み煎茶
やまかい・在来ブレンド

 「山峡(やまかい)」は、「やぶきた」の自然交雑実生から選抜された品種で、山のお茶らしい特徴から山の谷間を意味する山峡の名が付けられました。

  やぶきたから派生した品種ですが、香りも味もやぶきたとは大きく異なっています。

「天然玉露」とも呼ばれ、露地栽培でもしっかりとした旨味があり、苦渋味は少なめで、独特の香気が特長です。

 やまかいには花粉症に効果があると云われる「メチル化カテキン」を多く含み、最もメチル化カテキンが多いとされる「べにふうき緑茶」よりも美味しくて飲みやすいということで近年注目されている品種です。

静岡県浜松市天竜区と浜北区の境界にある杉峠(杉本集落)杉神社の八衢杉

※杉本は旧下阿多古村青谷の字

 杉神社は杉峠の頂点にあり、主祭神は不明ですが、一般に境界、峠、分岐点に祀られる神は…

猿田彦大神
塞の神
クナトノ大神威様(岐神、二俣神)
八衢比古、八衢比売
道祖神

 クナト神(岐の神)は巷の神、峠の神、道俣神、久那土神、車戸神、衝立船戸神、車戸大明神など多くの異名を持つ神で、熊野(クマノ)大神もまたクナトの転じた神だと云われます。

 元々クナトは出雲の最高神であり、天孫族(神武、応神)に出雲族(仲哀、邪馬台国)が滅ぼされたとき、様々な異名や別の神(猿田彦大神)、道祖神や地蔵に変えられてしまったのだと云われています。

 そう考えると…地域の境界にあり、峠に立つ神社ということで、外敵の侵入を防ぐために岐神が祀られたとしてもおかしくありません。


 出雲族の最高神であるとされるクナトは、アマルナ革命を行ない唯一神アテン神信仰を広めたエジプトのファラオ「イクナートン」(=アクエンアテン、アメンホテプ四世B.C.1362~1333頃)を指し、出雲族の起源をモーセに従ってエジプトを出たアテン神信者とする説もあるようで、出雲=諏訪=ユダヤ説と共に一部にマニアックな研究者がいるようです。
  因みにアクエンアテンの后は古代エジプト三大美女の一人ネフェルティティ、子の一人にツタンカーメンがいます。
 クナトは古代出雲族にとって、唯一絶対神として崇拝されていた神であり、その名残から多くの異名を持ち、そして大和朝廷にとっては敵対する神でありながら、その強大な力による祟りを畏れ、アラハバキと共に名を変えて祭祀が続けられたため、朝廷側の猿田彦大神とも習合し、或いは道祖神や地蔵菩薩、そして天狗(天狗とは元々出雲族が天宮《てんぐう、あめのみや》として崇拝していた神とする説あり)へと姿を変えて崇拝され続けており、実体のつかみにくい神として研究者を悩ませてきました。 
  岐神は塞の神、境界の神、分岐点の神、侵入しようとする外敵を防ごうとする神。
 出雲族が天孫族の侵略を防ぐために天竜区に張り巡らせた結界の一つが、今もこの杉峠に残っているのでしょうか?

 杉峠の麓、浜北区堀谷にはアラハバキ神社があります。
 アラハバキノ大神威様は縄文由来の古代神で、磐座や滝を依代として祀られた…所謂「石神」であり、「消された神」で、やはり出雲族が信奉しておりクナトとアラハバキは夫婦神であったとも云います。
 クナトが道祖神や地蔵に変って(隠れて)信仰されたように、アラハバキも観音や弁天に変えて祀られ続けたようです。

 堀谷のアラハバキ神社は日本で唯一、磐座を御神体とするアラハバキ神社だと云われます。消された神であるアラハバキが、ここだけ太古の昔のまま磐座を御神体として祀られている…このアラハバキ神だけは変えてはならない理由があったのでしょうか?

 律令制度が確立した頃、この辺り(浜北区北西部)には「麁玉郡」が置かれていました。阿多古(あたご)も当時は碧田郷(この地域の方言では「ああたごー」と読む)と呼ばれ麁玉郡に属していたようです。

 当時の麁玉郡一帯は「観音山」の山裾に位置しているわけです。

 阿多古はのち豊田郡、磐田郡に属しましたが、麁玉郡は江戸時代末期には僅か6村の小郡として残り、維新後も明治29年の郡制移行まで一村一郡の麁玉郡麁玉村として存続しました。

 堀谷から杉峠を経て石神に向うルートは、今は寂しい峠の山道ですが、現在、浜北区、西鹿島(天竜区)方面から阿多古へ抜ける県道9号は明治時代に敷設された道路であり、現在県道9号の通る椎ヶ脇神社や、その先の天竜病院がある百々原付近は天竜川に面した断崖絶壁であったため、近年まで杉峠が主要道として使われ、昭和後期まで宮口から石神、阿寺を抜け東栄町に至る国鉄バスのルートにもなっていました。

 かつては多くの人が杉峠を越えていったわけですが、その先の石神金原(金原遺跡からは縄文時代の遺物が出土している)には、やはり縄文由来の古代神ミシャグジが祀られる社隅地神社が残っています。

 麁玉郡の中心地であった「宮口(みやぐち)」という地名は、ミシャグジに由来していると云われます。

 古代麁玉郡一帯には、縄文由来の神が祀られ、縄文遺跡も点在しているのです。
 「麁玉伝説」では椎ヶ脇神社崖下の椎ヶ淵には椎河脇大龍王の棲む竜宮城があり、龍宮山岩水寺付近は「根堅(=古事記に記される…海底にある死者の行く国、根堅洲國に由来する)」という地名で、その根堅遺跡からは本州唯一にして最古の旧石器時代人の人骨が発見されています。

 縄文、旧石器、神話、古代神、石神…旧麁玉郡一帯は古代のロマンに満ちています。


 杉神社周辺の樹相はこのように異様な様相を呈しています。ここは圧倒的なパワーを感じる場所です。ここの木は枝が八衢に分かれ、あり得ない方向に曲がっています。
 ここにクナトノ大神がいらっしゃらないとは考えられません。

 天竜区佐久間町吉沢の田高杉もまた、幹が八衢に分かれています。ここは、天竜熊方面、龍山方面、佐久間浦川・東栄方面に分かれる「分岐点」であり、杉の根元には「道祖神」が祀られています。

 「神の存在」とは、そういうことなのです。縄文人が何故、そこに分岐点を作ったか?そこを境界としたのか?何故、そこに神を祀ったのか?
 そうした場所は、大地にパワーがあり、確実にそこに「神」がいて、その力が樹相に顕われるのです。

 そこには、神が存在します。

 二俣城が国の史跡に指定されました。
 ここは、古代より何度も合戦の舞台になったのです。

光明山頂から見た天竜川、秋葉山頂から見た遠州平野の夜景、西から来た軍隊が天竜川上流の山岳地帯に攻め込む唯一の渡河点である鹿島(今津の渡し、西岸に椎ヶ脇神社、東岸に鳥羽山)


 二俣城を攻める軍隊は、光明山、秋葉山からの展望でその存在が明らかになります。南北朝時代、天竜区山岳地帯に籠もった南朝勢は三岳山、観音山、光明山、秋葉山頂で狼煙を上げて連絡を取り合い北朝勢の侵入に備えました。光明山頂からは伊勢の鳥羽から伊豆の下田まで一望出来たそうです。

 二俣城を攻める軍勢は、鹿島を渡り(鹿島上流で二俣川と阿多古川が合流、鹿島橋付近で天竜川は東流(廣瀬河、現在の天竜川本流)と西流(麁玉河、馬込川源流)に分岐していた)、背水の陣を敷いて高台の鳥羽山城を攻めなければなりません。これは兵法的には最も難度の高く、本来やってはいけない城攻めとなります。

 鳥羽山峠にも明治維新まで猿田彦大神を祀る鳥羽山神社があったというので、これも元は峠の神、二俣神クナトが祀られていたのでしょう。


 鳥羽山城を落としたとしても、二俣城を攻めるには再び二俣川を渡り背水の陣を敷いて高台の二俣城を攻めるか、或いは鹿島から直接船で流れ渦巻く大天竜の流れに逆らい断崖絶壁の二俣城へドンキホーテの如く玉砕覚悟で向っていくか…?

 二俣城は難攻不落、天険の要害と云われますが、具体的にその難度を真剣に考えた人は何故かあまりいませんでした。豊臣秀吉は「二俣を制す者が天下を制す」と言っていたようです。秀吉は遠州にいた徳川勢を関東に追いやると重臣の堀尾氏を浜松に送り込み、二俣城、鳥羽山城に石垣を張り巡らせ豪華絢爛な桃山の別郭一城の巨大要塞に仕立てました。この事で今回二俣城・鳥羽山城は国の史跡となったのです。堀尾氏は関ヶ原で東軍に与し、結果、武田氏と二俣城を巡り激しく攻防し最後には二俣を制した徳川氏が天下を制したのです。もし、堀尾氏が西軍に与し二俣城に籠り西軍の到着を待っていたら、三成が天下を握っていたかもしれません。


鳥羽山城の大手道、鳥羽山から見下ろす鹿島橋

 鹿島から南は「磐田之海」という泥の海であったと云われます。ここは縄文海進期には海で、その後も干潟のような汽水域の広がる時代が続いていたのでしょう。

 西岸の百々原、東岸の神田原は断崖絶壁。二俣は天険の要害でした。出雲族と天孫族(邪馬台国と応神)、南朝長慶天皇と北朝室町幕府、武田と徳川…何度も激しい攻防の舞台となってきたようです。

 戦時中、国鉄二俣線が軍需路線として突貫工事で建設され、二俣に「陸軍中野学校二俣分校」が置かれました。二俣分校ではゲリラ戦を教えていましたが、陸軍は本土決戦に備え長野松代に大本営を移す予定で、米軍が浜松に上陸し天竜川を遡って攻め入ると想定していたようです。二俣以北の天竜川中流域は赤石山脈の険阻な山岳地帯に囲まれ、川幅は狭く流れは急であり、山上からゲリラ戦法で叩くにはうってつけの場所です。

 二俣、天竜区の山岳地帯は戦乱の時代には強大な外敵と立ち向かう「最後の砦」であったのです。

 堀谷から杉峠を登って行くと、外敵の侵入を防ぐクナトノ大神威様の圧倒的なパワーを感じます。八衢杉からも、パワフルな生命力が伝わってくるようです。


 そして、その先にある石神金原六所神社、社宮地神社の神域に入ると、今度は何とも言えない清涼な空気に包まれるのです。

 下阿多古杉峠のやまかいと在来のブレンド
 ブレンド比率は8:2になります。

一煎目

二煎目

三煎目

 やまかい特有のアクの強い香りと個性的な味わいがよく出ています。口当り独特の渋味を感じますが、やがてフルーティな甘味に変っていきます。ワイルドで力強く煎の利くお茶に仕上がっています。

 煎を重ねるほど甘味が余韻に残り、ほのかに昆布のような香りと旨味も出て来ます。八衢の杉のイメージと重なるような、力強い生命力を感じさせてくれる…そんな主張の強いお茶なのです。

↑お求めはコチラから!


天竜煎茶 下阿多古石神金原在来・上阿多古芦窪やぶきた30g | 天竜楽市 天竜茶 本舗 on the BASE

静岡県浜松市天竜区石神/芦窪2018年産新茶 在来・やぶきた 下阿多古石神金原(きんばら)産の在来、上阿多古芦窪産やぶきたのブレンドになります。ブレンド比率5:5 独特の甘い香りがあり、口当りはやぶきたの味ですが後から紅茶のような甘味が舌の奥に残ります。 当地の在来種に多く見られる野性味、苦味はあまり感じさせず、洗練された香気が立ち、まるでアールグレイのような清涼感ある個性豊かで魅惑的なブレンド煎茶に仕上がりました。 明治十二年(一八七九)五月五日、天竜川流域の茶取引の中心地であった磐田郡二俣村(現浜松市天竜区二俣町)に紅茶製法伝習所が開所、翌年には横浜港より天竜産紅茶の輸出が開始されています。 二俣町の隣村である下阿多古村でも紅茶生産は盛んであったようです。 当時はアッサム種の茶の木が紅茶栽培用に導入されていたと思われますが「在来」と呼ばれる茶樹の中には当時の紅茶用品種が残っている可能性もゼロではないようです… 石神金原地区には、その名の通り柳田國男の「石神問答」に出てくる縄文由来の古代神「ミシャグチ」が祀られた「社隅地神社」が鎮座し、その裏山には祈願が立ち並んでおります。 金原遺跡からは縄文時代の鏃も発見されており、この集落は非常に古くから人が住み永い歴史をもっているのだと思われます。 柳田國男によればミシャグチ、ミシャグジはミシャグジ=塞の神(サイノカミ)=境界の神であり、大和民族に対する先住民の信仰であるとしています。石神(シャクジ、サクジ)、 御社宮司、御左口といった漢字があてられることもあるようです。 麁玉郡(浜北区)宮口(ミヤグチ=この地名もミシャグチ由来と云われます)から、かつては麁玉郡に属していた時代もあった阿多古地区へ向う街道には日本で唯一磐座を御神体として祀られたアラハバキ神社(堀谷)があり、このアラハバキ神も柳田國男「石神問答」においてミシャグチと関連した神であるとされています。 堀谷から峠道を登っていくと杉峠に杉神社があり、この神社の御神木は八衢(やちまた)に幹分かれ(分岐)していることで非常に目を惹きます。杉神社は浜北区と天竜区の境界に位置し、峠の神、塞の神、八衢の神といえば、やはり「石神問答」にその名を記されたクナトノ神(岐神、二俣神)であります。杉峠は多くの人が非常に強いパワーを感じる場所であるようです。 杉峠から山道を下り、阿多古川

天竜煎茶 下阿多古石神金原在来・上阿多古芦窪やぶきた30g | 天竜楽市 天竜茶 本舗 on the BASE

 石神金原のお茶と合わせて飲むと、古代のロマンに思いを馳せたくなるかも?
 共にリラックスしたいひとときにオススメのお茶です。


天竜楽市

静岡県浜松市天竜区は天竜川と秋葉の山々に囲まれた山間地。永い歴史と豊かな物産、伝統ある祭禮や観光、イベント情報を紹介するページです。

0コメント

  • 1000 / 1000