二俣の荘厳な祭禮囃子「流し」「聖天」「狂言鞨鼓」

 二俣囃子「四丁目」を奏でながら御旅所大明神へ向う城下連。 

 「もどせ」で大明神へ続く「西古銀座通り」に入ったところで囃子は「流し」に変わりました。 

 二俣の「四丁目」は江戸囃子の「仕丁舞」と異なり、落語の出囃子や芸妓衆が御座敷で奏でていたヴァージョンが元になっているようです。 

 二俣の芸妓衆は東京から天竜材や二俣市場の繭を直接買い付けに来る商人をもてなすため、東京から一流の歌舞伎囃子方を招いて芸の稽古をつけてもらっていたそうです。 

 一部の祭り囃子も東京歌舞伎の囃子方が伝えたとされており、「住田流」「望月流」の名跡を許された囃子方も二俣に存在しています。 

 新町から出た「望月万蔵」氏は戦後、尾上菊五郎劇団立ち上げに関わっています。東京に出てからも祭りの度に二俣に戻り、丁重に出迎えられ屋台に乗って囃子を奏でていたそうです。 

 二俣には大屋台で奏でられる「四丁目」の他に、三味線をいれて花屋台で奏でるヴァージョンもあり、現在も八王子まつりでは芸妓衆の花屋台で二俣の花屋台のヴァージョンと似た「四丁目」が奏でられています。 

 昭和20年代の二俣には十台を超える花屋台が大屋台とは別にあり、神輿渡御が町裏を回っているときに現在のクローバー通りには多くの花屋台が繰り出し、近隣から大勢の見物客が訪れ大いに賑わっていました。 

 二俣ではその後久しく、三味線を入れた花屋台のお囃子は聞かれなくなりましたが、昭和30年頃から浜松まつりの御殿屋台でも三味線を入れた女子のお囃子が主流となり(それ以前は浜松でも男子がお囃子を担当していた)、その頃二俣の囃子方が浜松へ囃子を教えにいっていたようです。 

 神輿渡御や一部の町では橋を渡るときに奏する「流し」は荘厳で格調高く重厚な曲調で、祭りの雰囲気を厳かに引き締めています。  

 プロの歌舞伎囃子方が関わったこともあり、二俣の囃子は哀感や情緒が趣豊かに表現されており、優美で典雅な伝統ある祭典の風情が醸し出され、これもまた二俣諏訪神社祭典を観る楽しみの一つと言えるでしょう。

四丁目 0'00" 

流し 4'35"

 諏訪神社神輿還御の随行中、柳囃子を奏でながら西古町西裏通りへ入って行く諏訪連

 西裏通りから諏訪神社まで宮本諏訪連が神輿還御の先駆となるため、ここからは「聖天」を奏でながら静々と神輿を先導していきます。

  神輿巡幸中は「静かなるお囃子」を奏でることとされており、神輿の先触れとなる先駆屋台では「聖天」「流し」「狂言鞨鼓」「深囃子」などを奏で厳粛に曳行されていきます。

 二俣囃子「聖天」は江戸囃子の「昇殿」がルーツになっていると思われますが、江戸囃子とは異なる曲調です。

 「流し」が天高く突き上がっていくようなイメージとすれば、「聖天」には地を這うような畏怖と神秘的なイメージを感じます。何れにしても「神に奉る音曲」らしい重厚な祭禮囃子となっています。

 神輿渡御の先駆を勤める南がく連が奏でているのは「狂言鞨鼓」で、この曲は篠笛ではなく能管(のうかん)を使って奏されます。


 「狂言鞨鼓」という囃子の名前は、『百夜草』(ももよぐさ)という長唄の下の巻の曲『神田祭』の中に登場します。

 【百夜草下巻神田祭】江戸時代には山車、屋台を曳き廻す華やかな神田祭が、明治中期より山車の巡行が不可能(電線が張り巡らされ市電が開通したためとされる)となり年々廃れていった(現在のような神輿の祭りとして復活するのは戦後のことだとされる)ため、幸堂得知が作詞し、曲や間に入る囃子にも注文をつけ賑やかな山車の曳き廻しと踊り屋台の雰囲気を曲に取り入れたと云います。
 明治44年に東京有楽座において初演されました。

 この曲中に登場する屋台囃子の曲名が「神田丸」「狂言鞨鼓」「渡拍子」「四丁目」となっており、同様の曲名は二俣にも「神田丸」「狂言鞨鼓」「四丁目」があり、渡拍子と似た名前の「渡り囃子」もあります。
 消えゆく神田屋台囃子を、東京から来た歌舞伎囃子の唄方が二俣へ伝えていたのかもしれませんね…


「流し」「聖天」「狂言鞨鼓」という囃子は、プロの歌舞伎囃子方が伝えたからか、祭り囃子としては極めて芸術性があり、格調高く聞こえます。
 誰もが簡単に吹ける曲ではありませんが、こうした荘重な調べを二俣の囃子方が現代に伝えてきたことは非常に素晴しいことで、貴重な日本の祭禮文化として後世に遺していかなければならないものと思われます。


 関東、遠州を中心に多くの祭りを観てきましたが、これほど完成された祭禮囃子はそうはありません。 「流し」「聖天」「狂言鞨鼓」…神とつながる祭りであることを再認識させる先人が遺してくれた貴重な文化遺産です。 

 日本全国にいるお祭りファンは華やかな部分も見るけれども、こうしたマニアックな部分も見逃しません。 

 祭りは、ただの「馬鹿騒ぎ」に非ず… 子供の頃は気づかないかもしれないけれど、いつかこうした先人が祭りに込めた思いに気づくでしょう。 

この祭りに参加した人、見物した人、何人が感じたかはわからないですが、初めてこの祭りを見に来て、「先頭の屋台と後続の屋台はお囃子が違う」と鋭い角度から「もどせ」や屋台を走らせることの意味も感じ取って帰っていった人がいました。 わかる人はいるものですね… 

 二俣郷社椎ヶ脇神社祭典も含め、この地域の祭りには…縄文時代から日本人が連綿と受継いできた祀りを、何とかして後世に伝えたいという明治の人の思いが見事に散りばめられています。  

 頭で考えるのを止めてその断片を拾っていくと、聞こえてくるんです。昔のことは学ぶより感じることが大切だと… 

東西南北の要衝に位置し、天険の要害として幾度も幾度も戦乱に巻き込まれ時代に翻弄されつつもしたたかに生き残ってきた地域に遺されたもの。  

 まだ探究の旅は続きます…


天竜楽市

静岡県浜松市天竜区は天竜川と秋葉の山々に囲まれた山間地。永い歴史と豊かな物産、伝統ある祭禮や観光、イベント情報を紹介するページです。

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