夏草や兵どもが夢の跡…二俣の15メートル道路
昭和20年代の「城下通り」
昭和31年開業の国鉄二俣線二俣本町駅は、まだこの写真には見えません。
広い通りにはボンネットバスが一台。
現在の城下通りを逆方向から
祭りの後の静けさ…
ではなく、画像は祭典当日。
土曜夜の神輿渡御の時だけでなく、最終日の神輿還御の時も鹿島橋~双竜橋間車両通行止めになっているのでした。
それにしても…車も人も通っていない光景はちょっとビックリ!
歩道橋の右側にあったのが「二俣会館」で、美空ひばりがショーを行なったときにはここから鳥羽山トンネルまで行列になったという逸話があります。
同じ場所から双竜橋方面
こちら方面は「会館通り」と呼ばれた時代もあったようです。
道路が開通する以前はこの辺りに内山町という町があったそうで、この一帯は昭和初期に全国一位の取引高を誇った二俣繭市場で財を成した内山家の土地だったそうです。
「旧会館通り」を走って駆け抜ける屋台
この鹿島橋~双竜橋間の道路は戦時中に当時としては広めの幅員15メートルの道路として建設されました。
左から国鉄二俣線橋梁、鹿島橋、天龍橋
15メートル道路が出来る以前は天龍橋~鳥羽山洞門(明治32年開通)~本町(白糸町)通り~西古銀座通りが二俣街道のメインルート。
鳥羽山洞門を潜り吊り橋の天龍橋を渡ると遠州鉄道(二俣電車)二俣駅(国鉄二俣線開通以降は現在地に移り西鹿島駅と改称、かつては上の画像の二俣線橋梁と鹿島橋の中間辺りの西鹿島側に「遠州二俣駅」が明治41年開業…明治44年開橋の天龍橋は当初通行料が必要でしたが日に一万人以上が鹿島、浜北方面から二俣へ往来していたと云います…鹿島橋は昭和12年開橋、歩道の設置は昭和43年)。
かつては浜松方面から祭りの見物客が押し寄せていたようです。
鹿島橋、新鳥羽山隧道が開通すると戦時中であるにもかかわらず昭和17年にモータリゼイションを見据えた15メートル道路が開通。
戦争中は国鉄二俣線も軍需迂回路線として突貫工事で開通。軍需工場は二俣周辺に疎開、工兵隊の演習場も二俣に置き、陸軍中野学校二俣分校が二俣に開校…これらの一連の動きは本土決戦に備え長野県松代に大本営を移し、浜松に上陸し天竜川を遡るであろう米軍をゲリラ部隊が迎撃するという想定があったようです。
決して竹槍で迎え撃つのではなく、陸軍は周到な計画をしていたのですね…
戦時下は昭和13年から20年までの間、屋台を曳いたのは一回だけ。屋台は防空壕にしまわれていたそうです。
戦後、15メートル道路は遠鉄、国鉄のバスが行き交い、空襲の被害を受けなかった二俣は復興期の遠州経済中心地として大いに繁栄をしました。
重厚な歴史を感じさせる天竜楽市二俣店前の15メートル道路。
二俣城の武田徳川攻防戦時には戦国武者が駆巡ったでありましょう…
夏草や兵どもが夢の跡…
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