天竜林業 植林の歴史
文明元年(1469)秋葉神社の社有林に杉・檜が植林され、天竜で人工造林が開始されたとされています。口承ではありますが、文亀元年(1501)開始とされる吉野川上村より早く、世界最古の植林であったとも云われています。
「山住日記」によれば、元禄九年(1696)二月に伊勢から杉・檜の苗三万本を取り寄せ山住神社の社領に植栽された記録があります。
宝暦十四年(1764)には中泉代官所を通して杉檜の挿木による植林を奨励する御触れが出され、小川、相津、二俣村などで植栽が試みられています。天明年間(1781-)には、民間の植林事業も広く普及していきました。
明治十九(1886)年に金原明善が瀬尻で大規模な造林を開始します。江戸末期に幕府御用材の需要が高まり、森林資源が減少、土砂崩れが起きやすくなって天竜川にも大量の土砂が流れ込んでいたため、明善は治水事業の一環として植林事業に乗り出しました。
明善は瀬尻で育苗事業も開始しましたが、現浜北区の平口、小林からも苗を買い付けています。明治中期以降、赤佐村、麁玉村では種苗生産が盛んになりました。
明善はまた、杉檜の伐採により収益が上がるまで長期間を要するので、地元住民の当座の収入源として和紙の原料になる楮・三椏の植栽も行なっています。瀬尻の楮は阿多古などで紙に漉かれ、阿多古和紙を使った武家凧はまた、瀬尻の寺尾地区などで初子を祝う凧揚げに使われました。金原明善の植林事業は多方面で産業の隆盛を促したのです。
明治期の天竜美林は疎植(間を広く植える)が主流でしたが、復興需要が拡大した戦後は植栽密度が上がり間伐が必要になりました。
然し、昭和後期から国内の木材需要が落ち込み、林業従事者の減少や高齢化が進んで間伐に手が回らない林地が増えてきました。間伐が行なわれないと大きく育った樹が充分な根を張れず、地滑りの原因にもなっています。
日本では古代から建築材料や燃料として森林資源が大量に利用されてきましたが、植林によって森林は維持されてきました。森を守り育てる文化は縄文時代から続いているとも云われます。植林は常に次世代の利益を考えて行なわれたものであり、高度成長を支えたのは豊富な森林資源でした。
現代日本の豊かな暮らしがあるのも、昔の日本人が森を守り育ててきたからこそ。現在、間伐が行なわれず暗くなった杉・檜の森は過去の遺物ではありません。現代に生きる私たちがしなければならないのは、この森林資源を上手に活かし、次世代に引き継いでいくことではないでしょうか?
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